写真にまつわるエトセトラ

OCTOBER 20 ,2004

 
■見えるモノ、見えないモノ
No.016



実家での一幕。

私:「ちょぉー、これ、ご飯なか毛ぇ入ってんで」

母:(まだ見てもいないのに)「そんなの入ってないわよぉ」

私:「ほら、ここあるやん、見ろって」(お茶碗の中の髪の毛を指差しながら)

母:(お茶碗を覗き込んで)「どこぉ?ないじゃないの」

私:「ほら!ココ!コレ!」(髪の毛をつまむ)

母:(目を細めながら)「・・・何もナイじゃないの」

私:「あるっちゅーねん、持ってみぃや」(毛を手渡す)

母:(手の平に髪の毛を置かれて)「あら、やだ」

私:「『あら、やだ』ちゃうわ。俺の視力なんぼやと思ってんねん。見えへんにゃったら眼鏡せぇや。それと、ジブン見えてへんからってナイんちゃうで。なんでそんな自信マンマンやねん。目ぇワルイんやったら自分の目ぇ信用できひんと思っとかなアカンやろ。」

もう、200回くらいは繰り返されてきた会話を原文のまま紹介させていただいた。果たして、みなさんはこのような経験をしたことがおありだろうか。視力が悪い人の気持ちは、視力の良い人には決して分からないものなのだろうが、逆もまたしかりなのである。

そして、これはなにも視力というフィジカル面に限ったことでもないだろう。認識という段階でも同じようなことがおきる。

例えば、クルマに興味のある人には峠仕様のAE86が見えたとしても、そうでない人には耳障りなヤン車にしか見えていないかもしれない。雪原を歩いていると思っていても、実は凍った湖の上を歩いているのかもしれない。見えているのに、見えていない。つまり、知覚はできていても認識できていない。

知覚できない人、認識できない人、あなたは、ご飯の中の髪の毛を食べちゃう人ですか?凍った湖の上を歩いて渡る人ですか?

ここで、私が見たものを他人に伝えるために写真を撮っているなどと言うつもりは毛頭ない。そもそも、写真には私が見たものが写るわけではないのだ。肉眼で見たものとは違う、ファインダーを通して見たものとも違う。

つまり、言いたいのは、写真とは、“カメラという他人”が見たものなのだということ。そして、そのカメラは私にこう言う。

カメラ:「ちょぉー、これ、なんか写り込んでんで」

私:「視野率100%やのに写り込み見逃すワケないやん」

カメラ:「ほら!ココ!コレ!見ろって」

私:(しぶしぶ現像したフィルムを見る)「・・・あら、ヤダ」

カメラ:「ジブンはカメラの中見えへんやろ。隣のコマに写した太陽が写り込んでるのなんてなんぼファインダー視野率100%でも見えへんし。ジブンが見てるもんが写真になるんちゃうで。なんでそんな自信マンマンやねん」

もちろんこれはほんの一例に過ぎない。逆に、知覚・認識できているのに写真には写らないこともたくさんある。

写真とは、例えるなら光の伝言リレー。

事物からレンズへ、レンズから記録媒体とファインダーへ、ファインダーから撮影者へ、記録媒体から選択者へ、選択者から出力者へ、出力者から展示者へ、展示者から鑑賞者へ。

この間、こぼれ落ちる情報があるだろう、新たに付与される情報、加工、改ざんされる情報もあるだろう。その上さらに最終的には、歴史的に閉じられた鑑賞者の内的世界に還元されるしかないのが、写真というものなのである。

もちろんこのようなことを知らずとも、撮れてしまう、写ってしまう、発表できてしまう、のも写真である。しかし、自分の写真に何かを期待し、写真で何かをしようと意図する者は知らずに撮ると必ず後悔することになるのだ。

自分の撮る写真に相応しい心構えと覚悟なしに垂れ流された写真は、きっと撮影者自身に手痛いシッペ返しを食らわせることだろう。

 

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