写真にまつわるエトセトラ

APRIL 2 ,2005

 
■なぜ、未だガーリーフォトか(1) New
No.019



当初この文章は、ある展示のレビューとして『芸術狂時代』向けに書いていたのだが、その展示が写真家としてキャリアのない者のグループ展であり、現在まで守ってきた『芸術狂時代』のコンセプトから外れることとなるため、掲載を断念したものである。しかし、以前より当コーナー用に書きかけていたテーマと上手く符合する内容だったため、加筆修正して当『写真にまつわるエトセトラ』にて公開することとした。

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先日、あるギャラリーで行われていた某写真学校の卒業写真展を見る機会があったんだ。約20名程のグループ展で、コンセプトは“フォト エクスタシー”とのことだよ。

さっそく、会場を見てみると、まず会場外のエントランスにまで展示が溢れてきていて、一歩会場に踏み入れると、壁面にはもちろん、床や天井にまで写真が。一応それぞれの作品にタイトルはついているものの一体どれが誰の作品なのか、その境界が非常に分かりづらかったね。

写っているイメージは、自分、親族、友人、同級生、あまりといえばあまりにお手軽な日常。写している場所は、風呂場、トイレ、自分や友人の部屋、屋上...これって、もう過去にうんざりするほど見てきたガーリーフォトの単なる焼き直し、だよね。

確かに、個々の写真を作品としてセレクトしまとめること、展示することといった撮影行為周辺の技術的なことは、及第点だったと思うんだ。皆、まじめに授業や実習で学んできたんだろうね。でも、そればかりが先走って、全然写真が撮れてないと感じるんだよ。展示方法も奇をてらったような方法ばかりなのに、肝心の写真はそれに見合ったものじゃないってこと。

さらに、鑑賞中に手渡されたアンケート用紙がこれまたヒドイもので、1番好きな作品、2番目に好きな作品...と、3番目まで作品タイトルとその理由を記述させるという安直かつ、鑑賞者の書く気をそぐもの。これじゃ、「書いて下さい」と言いながら、書かせる気が全くないと言われてもしょうがないよね。あまつさえ、会場にいた“展示作家”達は、鑑賞者を尻目に持ち込んだお菓子を仲良く囲んでお祭気分で飲み食いときたもんだ。

ハッキリ言って、この展示、全然気持ちよくなんかないし、むしろ気分が悪い。

展示全体としては、出展している仲間だけが気持ちのよい空間であり、個々の作品を見れば、それを撮っている撮影者だけが気持ちのよい写真ばかりだよ。

被写体を気持ちよくさせようとか、鑑賞者を気持ちよくさせようという意思は全く感じられないしもちろん写っちゃなんかない。なるほど、当のコンセプトである“フォト エクスタシー”とは、撮影者が“マスターベーション”でエクスタシーに達しただけなのだと合点した次第。

まったくもって、つまんない。

勘違いしないで欲しいんだけど、ガーリーフォトがダメだなんて誰も言ってないよ。今になっちゃ古臭く見られてしまうのはしょうがないと思うけど、ポスト・ガーリーとしてムーブメントと呼べるようなものは未だ起こってないんだからね。

この展示を見てると、写真を専門に学んできたポスト・ガーリーを担うべき若者達はたちは一体何を学んできたんだろうって思っちゃうよ。教育者の責任ももちろんあると思うけれどね。モラトリアムを謳歌するのも結構だけど、社会という戦場はそんなにヌルくない。展示パレードでこんな時代遅れの装備しか見せらない新兵、果たして何人が生き残ることが出来るんだろうね。

ジーザス。

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しかし、今回紹介した展示に限らず、未だ巷にこれほど溢れているガーリーフォト。いい加減飽きられて久しいにも関わらず、ポスト・ガーリーなる動きが見られないのはなぜなのだろうか。次回はこの辺りに焦点をあてていきたい。

 

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