写真にまつわるエトセトラ

MAY 19 ,2004

 
■写真における親の影響に関する考察(2)
No.010



それに気付いたのは、初めての個展で来場者にアンケートをとった時だった。 概ね好評な中、やはり気になるのは手厳しい意見であって、その多くは、


「動きがない」


というものだった。しかし、この時は、


「今回はたまたま動きのある写真を選ばなかっただけだろう」


と、好意的な意見に有頂天の私は、反省の機会を葬ってしまうのだった。その間にも病魔が蝕んでいくとも知らず...


実際に自らの写真を省みる機会になったのは、次に個展を開いたとき。やはり、アンケートを取ってみると、前回とおなじような意見に気付く。


「動きがない」


はて、そんなに動きがないかな、と流石に前回と合わせて600人分のアンケートから抽出された意見は無視できず、過去に展示したものも含めて見返してみる...確かに、被写体は動いていない。確かに、水平を出した正面から全体を収める構図。

「なるほど、だったら動きのある写真を撮って、選べばいいのだろう」

そう思い、撮影に出かける。そう、苦手科目を無くそうとするのが私の習性である。


だが、撮れない。撮っても以前と変わらない。たまに動きのあるものにシャッターを切ってみても、セレクトには至らない出来栄えである。こうなってくると、以前まではヨイと思うようなカットが撮れても、「また、同じか」としか思えない。

こうして、生半に写真を撮りつつも長い長いスランプに陥っていくのであるが、その話はまた別の機会に譲るとして、ここではなぜそうなったかということに焦点を当てていきたい。

確かに雑誌等を読み基本的(?)なテクニックを身に付けたこともあるだろうが、やはり根っこにはすでに前述している親の評価があるのは、その変化の時期から見ても間違いないと思われる。そして、「良い写真」「撮りたい写真」という足枷が自分の中で組み立てられてゆく...

思えば幼少の頃、親のカメラで遊んでいた時は、カメラを傾けたり、逆さにして撮ったりしていた。普通に、皆と同じように構えて撮るのが嫌だった、ちょっぴりヒネた子なのだった。

それが一転、“水平を出し”、“主題全体をおさめる”という、写真しか撮れなくなるのだ。


普段親のアドバイスなんかには素直に従わない天邪鬼なのに、自分の結果に対する親の評価がどれだけ私の行動に影響を与えたか、という話。