MAY 8 ,2005

■『京都2005』 by MOTOKO
No.033
[場所] COCON 烏丸
[期間] 2005年4月1日〜5月15日
[料金] 無料



さて今回は、前回のドアノー展からハシゴして見に行った『京都2005』というMOTOKOの写真展だよ。この会場が変わっていて、四条烏丸に新しくオープンした「COCON烏丸」という複合商業施設なんだ。それもロビーや通路の壁面を使っての展示で、写真展というよりはディスプレイされた装飾という感じだね。実は、3階にある京都精華大学shin-biギャラリーでも展示をやっていたようなんだけど、こちらは残念ながら会期が終わっていたんだ。

ところで、ボクがこのMOTOKOという写真家を知ったのは写真集『UA by MOTOKO』でだった。「UA」ってどこの都市の略だっけ?と、見当ハズレな記憶検索をかけつつも手に取ったのは、その外国の都市と思われたタイトルと田舎の飯盛女のような風貌の表紙との奇妙なギャップからだったんだ。その時は「ユーエー」というタイトルの意味は全然分からなかったけれど、ずいぶん乱暴な、それでいてまるで過去を今見ているかのように時代がかって見える写真がずいぶん不思議に思って、どんな写真家なのか注目したくなったってワケ。トーマス・シュトゥルートを彷彿させる『Day Light』はアレだったけど、今回は京都をどう撮ったのかお手並み拝見といこうじゃない。

イメージ的には、よくあるカッチリとしたいわゆる“京都モノ”とはちょっと違って、肩の力を抜いた視線で捉えられているね。たとえばそれは、曖昧なフレーミングだったり、水平や垂直が出ていなかったり、余計なものが写り込んでいたりといった具合。これはありがちなステレオタイプの“美しい京都写真”を避けるためにあえて選択した手法なのだろうけど、それが逆に、正面から切り結んでいるのではなくて、どこかハスに構えた印象を受けるね。これは被写体のほとんどが実は“京都モノ”ど真ん中であるということが原因だと思うね。だから余計にワザと外してる感が透いて見えちゃうんだ。素直じゃないと言ってもいいかもしれない。

作家本人の言では「地元の目線で見たときの京都を、うまく京都以外の人の目線で伝えられないか」という思いから撮ったとある。でもね、地元の人がこのような目線でみているのかな、京都のイメージが氾濫する京都にいるからこそ、既存のステレオタイプに侵されているんじゃないかな。例えば平安神宮の鳥居は、どの角度から見上げたとしても、あたかもPHOTOSHOPの変形ツールを使ったかのごとく真正面からの姿を“見て”はいないだろうか。

これは、余計な事物を排除し美しく撮ることをワザとぜずに「カメラ」が捉えた目線なのであって、京都人のそれとは言えないよ。正方形のフォーマットということも“視線”とするにはチョット不自然だよね。でも35mmだと単にヘタな旅行写真となりかねないところを、『UA by MOTOKO』でも魅せた“6×6使い”が上手く救っていたのも事実だよ。と、このような奇妙な不協和音を発しているのには実はワケがあってね。

それは、この写真展の元になっている写真集『京都 The Old and New Guide of Kyoto』がその名の通り京都の名所ガイドブックとして構成されているからなんだ。京都以外の人が見たいと思う京都で満たされるべきガイドブック、それを地元の目線で撮るというところに一見相容れない矛盾が生じているんだ。だって、地元の人はそんな観光名所になんかわざわざ行かないし、お客の案内なんかで行ったところでそんなおのぼりさんと同じ目線でしか見ていないってもんさ。つまり、そもそも地元の人の目線なんてない場所の写真を、地元の目線で撮ろうってのが間違いだったってこと。

京都を地元の目線で撮りたいなら、観光名所は最も撮ってはいけないもののひとつだろう。本当の京都人にとって、観光名所としての名所は身近な経済、つまり金銭にからんだもっと俗なものだと見ているし、歴史としての名所はアイデンティティのよりがかりとして存在そのものが誇りなんだよね。ガイドブックというコンセプトが撮影の前にあったのかどうかは分からないけれど、結局京都の表面的な幻想しか撮れていないのは、どこまでいってもこの写真家がヨソ者だったということなんだろうね。本当に京都に暮らす人が“見て”いる京都は、こんなに京都らしくはないのだ。