MAY 8 ,2005

■『パリの知性 ロベール・ドアノー展』
No.032
[場所] 何必館・京都現代美術館
[期間] 2005年4月1日〜5月22日
[料金] 1,000円(一般)



今回訪れたのは、おなじみの「京都現代美術館・何必館」で、見たのもこれまたおなじみの写真家ロベール・ドアノーの写真展だよ。ドアノーの写真展はブレッソンのそれと同じくらい頻繁に行われているのだけれど、何必館でも2度目になるのかな。前回の図録がそのまま販売されていたところをみると、展示内容は同じものだったのかもしれないね。

さて、会場にはいかにも写真を勉強しています風にカメラをブラさげた方々がチラホラ。さすが大御所の写真展ってところ。展示の内容はどうかというと、概ね代表作がそろっていたと言っていいんじゃないかな。でも、ブレッソンの時も感じたんだけど、この何必館のコレクションは、よく言えば代表的なイメージ、悪く言えば有名な売れ線のイメージだけを集めているように思うんだよね。

ブレッソンはよいとしても、これではドアノーの写真が歪めて伝わってしまう恐れがあるんじゃないかしら。なぜか、それは数あるブレッソンの写真集とドアノーの写真集、双方いくつかを手に取ってみてみると分かると思うよ。

ブレッソンの写真は、どれもある場所で撮られた最善の一枚、一場面一枚で構成されているのに対し、ドアノーの写真は、ある同じ場所、場面で何枚か撮っているものがあるという違いがあるんだ。
もちろん、ブレッソンだって同じ場面で何枚も撮ったかもしれない、でも発表しているのは一枚だけ、もし別のカットを見たいと思ってもそこにはあの「マグナムの壁」がある。それは“見せない”という写真家の意思であり、それこそが写真表現でもあるんだよね。

一方、ドアノーの写真をたくさんみていると、彼がどのような場所に好んで張り込み、待ち伏せしターゲットを狙っていたのかが見て取れる、それはまるで彼と共にパリの街をギラギラした目つきでウロついているかのようにも感じられるし、それがドアノーという写真家の魅力だと思うんだ。ところが、今回のような各代表一点ばかりを集めたコレクションの内容ではそれを感じることができないんだ。つまり、ブレッソンの頂点1点主義と同じになっちゃうってこと。結果、ドアノーに対し「パリから一歩も出ることなく、日常の目前に現れた偶然のワンシーンをとらえるスナップの名手」なんてチンプンカンプンな見方をする人が少なからず出てくるってワケさ。

「パリから一歩も出ることなく・・・」という文脈に沿うのは、そんなパリでの自らの写場へ何度でも通いつめて、飽くことなくイメージを追い求めて撮り続けた写真家の姿なのであって、決して偶然や一瞬なんて要素じゃないんだ。彼の期待や焦りや失望までも感じられるそれらの写真を見られないというのはとっても残念だったし、それがドアノーという写真家を歪めて見せていたのも気になったよ。

最もメジャーなイメージ「パリ市庁舎前のキス」が“やらせ”だということは有名なのだし、他にもやらせがないとは言い切れないことを十分に踏まえた上で見るべき写真展だよね。だってそういったことが展示から感じられない以上、“写真家の意思”ではなく“コレクションを選んだ人の意思”に惑わされてしまうかもしれないんだからさ。でもそれが写真の面白いとことでもあるんだから複雑だよね。