MARCH 26 ,2005

■不肖・宮嶋 報道写真展 in 京都『いつでも どこでも だれとでも』
No.028
[場所] 池坊学園アートフォーラム
[期間] 2005年3月15日〜4月3日
[料金] 1,000円(一般)



前回の「エスクァイア デジタル写真賞展」と同じ日にハシゴして見たのは、日本の最終兵器である大陸間弾道写真家“不肖・宮嶋”の写真展『いつでも どこでも だれとでも』だよ。展示作品は約200点。東京、静岡、名古屋と巡回しているという大写真展だね。

会場は池坊短期大学内のギャラリー、入場すると「本人がいますので...サイン会が...(云々)」と言われたんだ、でもボクは写真を見に来たんで別にサインなんて興味ないよ。そんなことよりも会場内の高すぎる温度をまずなんとかして欲しかったってものさ。

先に、大写真展と書いたんだけど、展示・会場はおせじにもそれに見合ったものじゃなかったよ。狭い会場にスシ詰めにされた作品は、見ていて非常に疲れるし、作品の額装が簡易なものだったのも相まって、とても安っぽい感じだったんだ。まるでどこかのアマチュア写真クラブの写真展を見ているようで、これに入場料1,000円はあまりに高すぎるんじゃないかな。

じゃあ、イメージがそれだけの価値があったのか。確かに、その時、その場所にいなければ撮れない写真ではあった。ただそれだけのことがどれだけ困難なことかも十分に見て取れもしたよ。でもね、そのせっかくの場面の切り取り方は大いに疑問が残るところなんだ。極限の状態を考慮に入れても平凡過ぎる視線は、「報道写真」として割り切って見てもあまりに物足りない。

これでは、不肖・宮嶋は単なる危険を顧みない“カメラマン”に終わってしまうんだけど、そう断じてしまうのはまだちょっと早いよ。この展示でなにより楽しめたのは、全ての写真に付いている「キャプション」だったんだ。現場の様子やその解説、感想を面白可笑しく独特の文章で書かれたそのキャプションには、高密度で展示されている写真にも関わらず鑑賞者を一枚一枚に惹きこんでいく力があったんだよね。

つまり彼は、前述のことを自分で気付いていると思うんだ。一枚のイメージとして見た時、自分の写真には、キャパのそれほどには魅力がないってことをね。これを補うために、より写真に魅力を与えるために、それに見合うだけのキャプションを添えているんだ。

もちろんそのキャプションを額面通り受け取るのは危険だよ。これは現場で撮影した写真を、作家が後にプリントを見ながら頭をひねりつつ付与したものだということを忘れちゃいけない。鑑賞者を楽しませるために、ね。

こうしてみると、彼が単なる危険を顧みない“カメラマン”ではないことは明白だよね。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と昔の人は言ったけど、まさに戦場(写場)での敵と己、写真展での敵(鑑賞者)と己(の写真)を彼はちゃんと知っている“写真家”だってことさ。