MARCH 30 ,2005

■吉永マサユキ写真展 『BAMBO』
No.026
[場所] graf media gm
[期間] 2005年2月19日〜3月21日
[料金] 無料



また前回に続いてgrafを訪れたんだけど、今回は吉永マサユキの写真展「BAMBO」を見るというちゃんとした目的があったんだよね。

吉永マサユキといえば、書店の写真集コーナーに「申し訳ありません」という場違い的インパクトを放つタイトルの写真集も出している大阪出身の写真家だよ。でも、その彼の撮る写真の内容はいたって硬派。今回の「BAMBO」はそんな彼の代表作とも言える暴走族を撮ったシリーズからの展示ってことで、実はズッと前から楽しみにしてたんだ。

会場でまずボクを出迎えてくれたのは、いわゆる「ゾク」仕様にカスタムされたバイク。これが、必ずしもセンスが良いというワケじゃないし、塗装の質も悪いという部分まで微妙に再現(?)しているのがなんとも微笑ましかったね。こんなカスタムは同じバイク乗りでも、カフェレーサーなボクには決して相容れないものなんだけれど、バイクに乗らないアチラ側の人にとっちゃどちらも同じに見えるのかなとも思って思わず身震いしちゃったよ。

さて、一歩会場に足を踏み入れると、壁面には超大判プリントがズラリで圧巻だよ。前半は、深夜の暴走行為を一緒に並走しながら撮ったもの。後半は、そんな「族」と呼ばれる若者達のポートレートなんだけど、社会的はぐれ者に焦点を当てたとか、撮りにくい被写体との距離感と関係性とか、確かに大事なんだけどこの際どうでもよくて、何がスゴイかって、その写ってる族達の眉がスゴイんだよ。

着ているのは、いかつい刺繍を施された真っ白な特攻服。傍らには誇らしげに置かれたフル族カスタムの愛馬。でもいやがおうにも目が吸い寄せられるのがその眉。極限まで細く剃られた異様な眉形もさることながら、その剃り残しや生えかけの青々とした眉がとにかくリアルに迫ってくるんだよね。大判の画面いっぱいのドアップポートレートなんかは、目のやり場に困っちゃうくらい生々しい眉なんだ。中にはマスクをしたまま撮られているのもあって、それが余計に眉を強調されちゃって...まるで、吉永はこの眉を見せたいがために、この展示サイズを選んだんじゃないかってくらい。

と、ここでハタと気付いたんだけど。暴走行為を並走しながらの撮り方が気になった前半はともかく、後半ここまでボクは、撮影者吉永の存在を完全に忘れていたんだよね。つまり、写真の中の被写体と対峙してたってこと。撮影者を素通しして被写体と向き合える写真、これってスゴイことだよね。いや、ほんとスゴイことなんだよ。

当の吉永は、暴走族というランドスケープの中にいる彼らの自己表現という「表現」を切り取っているだけだと言う。そして、“写真を撮るということは引き受ける行為”だともね。なるほど、確かに異様な眉も含めて全てが集団内での彼等の表現なんだね。それを、引き受けたからにはハンパじゃ済まされないということも吉永は知ってるんだ。だからこそ、被写体の精一杯の表現を、具に取りこぼさない為の撮影方法、展示サイズなんだよね。

ゆるぎない。一言でいえばこんな感じかな。この展示、もっと言えば吉永マサユキという人の印象がね。だって、テーマの選択、アプローチ、コンセプト、撮影方法、展示方法、およそこの写真行為に関する全ての事柄に一本のハッキリした筋が通っていて、矛盾というかブレが全くないんだもの。目指す目的を果たすための方法論、そのどの段階を切っても破綻がない。そして、この作品がおそらくは吉永が期待した効果(=結果)を存分に発揮しているであろうことは、先のボクの体験からしても想像に難くないよ。

一見、扱いにくい社会的マイノリティを撮った作品だと捉えられているけど、これはあまりに表面的すぎるんじゃないかな。確かに、コンタクトや関係性も作りにくく、発表も難しい被写体かもしれない、でもそんな「がんばって苦労しました」というのを吉永は見せたいんじゃないよ。

撮影者を突き抜けた先に被写体があり、被写体を突き抜けた先に撮影者の並ならぬ覚悟が見えてくる。その覚悟によって一貫して裏打ちされた写真行為だということが重要だとボクは思うんだ。

ここまで撮影者、被写体、鑑賞者を写真で貫くことができる展示はそうはないんじゃないかな。まさしく、写真で引き受けた責任をしっかりと果たしていたと思える超良質な展示だったね。

あなたは写真で何を引き受け、何を果たしていますか?