4月12日、曇り。この日は以前から見たいと思っていた、篠山紀信の写真展『Tokyo Addict』を見るために大阪まで出かけたんだ。なんせ、会期末が近かったから、なにかのついでというワケにはいかなかったんだよね。でもそのおかげで、この日予定していなかった展覧会をもう一つ見ることができたんだ。まあ、それは次回にでも取り上げるとして、今回は篠山紀信の写真展についてだよ。
この写真展のことを知ったのは去年(2002年)名古屋に森山大道の写真展を見に行った時だったんだ。名古屋のパルコでチラシを見て「これはついてる」と思ったら、場所は渋谷パルコとなっていて地団太を踏んだものさ。あれから半年、ようやく射程距離に入った写真展を味わってみようよ。
まず圧倒されるのはその写真の大きさだね。縦に長いロールを壁面いっぱいに並べてあるんだ。少し離れて見ると本当にその写真の場所にあるみたいに錯覚してしまうくらいだよ。それもそのはず、これらのイメージは、バイテン(8×10)というA4サイズもある大判のフィルムを使うカメラで採取されているんだ。
でもプリント自体はデジタル行程を経たのが多かったよ。何カットかをつなげているのかもしれないな。離れて見るぶんには問題ないけど、やっぱり分かるよね。さすがにバイテンを銀塩のプリントに伸ばしたものは写っているモノの質感が違った。せっかくの大判の情報量をデジタルでスポイルしてるのはもったいないよね。屋上の看板ならともかく、せっかく近づいて見れるんだから、近づいても見たいじゃない。
技術的な面はそれくらいにしておいて、捉えられたイメージはどうか。そこには、「写真家 篠山紀信」と高らかに謳う様子など微塵もなくて、ただ、その場面場面が記念撮影的に定着されていたよ。森山大道や中平卓馬とは方法論こそ違えど、写真のアノニマス性を体現しているという点ではやはり同時代的というほかないね。そして、大判カメラで即写という方法は、同じライトパブリシティ出身のホンマタカシに通じてる。
どこか捉えどころの無い、写真家としての篠山紀信。でも、こうして作品を見ると確かにその存在感は感じられるんだ。それは意外とどこにでもいそうな感じ。その「どこにでもいそう感」では荒木経惟にも決して負けてはいないよ。
鑑賞してる最中にこんなことがあったんだ。壁面のプリントにポツリと小さな穴が切ってあった。そこからあやしく光る曲面が顔を出していたんだけど、「もしかして、撮っているのか!?いや、こんな篠山ならやりかねない!」と戦慄したんだ。結局それはレンズではなくてドアの突起だったんだけど、言いたいのはそれくらい篠山は「どこにでもいそう」ってことなんだ。
ほら、君の後ろ遥か後方、アフロ犬の着ぐるみに見えたものは、ひょっとしたら何かを撮ってる篠山かもしれないよ。
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